写真における「過去」の明証性が、「現在」の明証性を突き崩すものとして立ち現れてしまうこと。-ヴァナキュラー・モダニズムとしての映像文化 p43
この一文が面白いなと思って、つい書き留めていた。
この一文は出典の書籍の中の「『明るい部屋』を読み直す」という章で出てきたものである。「明るい部屋」は現代の写真論の中でもかなり重要な一冊と言われていて、自分も持っている(恥ずかしながら、微妙に読了はしていない、、、5年以上前から持ってるのに)。
写真によって過去を確かな「そこにあった」ものとされたとき、では現在は相対的に不確かなものかあるいは揺らぎを持つものと見られ、それは写真を前にすると現在は弱いものとなってしまう。
いちばん未来に近い瞬間である「現在」は、グラデーションの中の1点であり、無限にある不確かな可能性から、ひとつずつが確定していくことの連続。これに対して、撮るという行為の中で自分の意思を持って「過去」として記録し、未来へ受け渡す。これは撮る者の喜びのひとつなのではないかなと思った。
クラウドやSNSによって写真は、過去の出来事や瞬間を常時参照することができるし、そして最近はアルゴリズムによって(強制的に・勝手に)残す価値を決められてしまうし、そしてそれは「現在」を、「今生きている」という感覚から、「今アーカイブ候補を探している」という感覚にさえしてしまう。
いくら過去の写真や言葉や声などをアーカイブとして残し、過去の存在を証明したとしても、現代人は満たされることなく、新たな価値あるものを探し、それがなければ虚無と感じてしまうことさえある。
そういう時間の過ごし方や感じ方ゆえに、人々は比べたり欲望を膨らませ続けて、足るを知ることなく、闇に沈んでいってしまう。これは悲しいことかなと感じている。
写真を撮るということは、「世界を残すため」か「世界を理解するため」かという問いが生まれた。
これは明確に「世界を理解するため」が近いと考えた。撮るという行為によって何を理解できるのかすらいまだに未知と言えるけど、レンズを通して見ることでやっと「世界」を視るに至る、と感じる。(肉体による視るはまだ感性的であり、レンズを通すと少し知性に寄る)
そこにはフレーミングによる切断、圧縮や露出やボケによる強調など、様々な意思決定が生じる。これは、世界を理解できるかはわからないけど、やっと同じ土俵に立っているという感じがする(世界と対峙)。

コメントを残す