知ることと、生きることのあいだ

自分は何を欲しがっている(またはやりたがっている)のか。それが分からなくなったとまではいかないけれど、もう少しよく考えないといけないかもしれないなと思った。

基本的には知ることは好きだから、できるだけ時間や気力があれば本を読むとか、調べ物をして、自分の知識を膨らませることには取り組んでいる。旅行をするときにも、〇〇ミュージアムのようなところへよく足を運び、あまり知らなかった領域のことを知ったりもする。
あるいは、仕事柄さまざまな業種の人と関わったり、製品について知ったり、普通はなかなか入ることのできない場所へ足を踏み入れたりもする。それで知れることの中には、インターネットで調べてもなかなか辿り着けないような知識であることも少なくない。

こうして知った多くのことは、何かに触れた時に、頭の中で網目のように他の知識と接続され、自分の中の世界が広がるような瞬間を生み出してくれる。

では、そうして積み上がっていった知識(と呼ぶには少し浅いかもしれないもの)たちは、どのようにアウトプットするのか。
何か会話の中で、引き出しの中から要素をくっつけて、その会話を深めていくようなタイミングはたまにある。そのように膨らんだ会話というのはとても楽しいし、その場に参加している他の人の知識も得ることができて良い。
でも、そういう会話が発生するタイミングなんてあまり多くないし、酒の席であまり後になって思い返したりできないようなこともしばしばある。

今年は年始からこのブログへの投稿を、完成度を大きく下げる代わりに頻度を増やすという運用に変更した。できればnoteへも投稿をして、ほんの少々でも収益を得たいなと思ったりもした。
ブログへの投稿は思考や文章を書くことをやめないためにいいだろうが、果たしてnoteで収益を目指すことは、本当に自分がやるべきことなのか、時間を使うべきことなのか、そもそも自分ごときがあんなレッドオーシャンで収益を得ることなんてできるのか。そう考えが進んだときに、そもそも自分がやりたいことはなんだっけ、と思った。

去年の前半には、一昨年かそれよりもう少し前から書いている小説の執筆の速度を上げ、投稿もスタートしたけれど、忙しさと想像よりもさらに悪い読まれなさに進行は止まってしまった。でもこの小説自体は、読まれたくてやっていたのではなく、自分が書いてみたかったから、書きたいように書いていた。でも、止まった。まぁこれは少しずつ時間を作って復帰したいとは思っているけど、これはやりたいことであると言える。

撮影についてもそうだ。ありがたいことに広告の撮影は忙しすぎるくらいに依頼をいただくし、去年はずっとやりたかった映画の撮影にも取り組んだ。でも、常に付き纏うのは、「撮る」ことはいつまで続けられるのか。自分の能力で今後自分のやりたい領域の撮影に進んでいけるのか。という厳しい自問。

〇〇したい、が無限に浮かんでくる。それをどう整理して、どう時間を割り振っていくのか。これを上手にやれている人のやり方を知りたい


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