この間、コインランドリーを久々に使った。映画の撮影で数日泊まり込みで、選択をする時間の空白もどこにもなかったから、5日分くらい溜まっていて、次の日も撮影、その後も撮影だったから、泊まりで出た洗濯物を車に乗せたままにして、撮影終わりに一気に洗ってしまった。
見知らぬ土地のコインランドリーだからって、この国のコインランドリーはどこもあまり変わらない。地域性とか、その店特有のとか、あまり見たことがない。ただ無人のちょっと清潔な空間の壁面に、びっしりと丸いガラス。そのうちいくつかはぐるぐると回り、ゴォンゴォンという音は思ったより静かで遠い。
洗濯はずっと苦手だ。やらなければ溜まっていって、ついには着るものがなくなるというエンドまで用意されているのに、いつだってギリギリまでやらない。洗濯物を洗濯機に入れて、洗剤とオキシクリーンを入れてつけ置き洗いにかけて、90分後に干すというプロセスがあまりに苦手。過去には毎日少量回せばいいのではないかと試したことだってあるけど、結局あまりにも疲れている日にその流れは止められ、停滞する。
でも洗濯というのは、人間が人間らしく生活するためにほぼ必須という点で、その人間くささは概念としては嫌いじゃない。日々を紡ぐために、誰だって洗濯をする(家族がやってくれるというパターンもあるだろうが)。生活は、人の数だけあって、それはただ時間の流れとともに過ぎてゆく。
コインランドリーの乾燥が止まるまでの間の停滞は、忙しない数日間の中に、自分という存在の生活を認識させるものだった。
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